Artist's commentary
フランドール
下着を洗わせることはイレギュラーなことである。それは飯を炊く事とも、雑巾がけとも、庭の手入れとも違う。好きであるもの同士が思い人の下着を洗うこと。それは腹部の奥、肺の底、腸の隙間に手のひらを差し込んでいるようなことだ。もう少し下品に表現をするのならば、舌の付け根を爪で引っかくようなことだ。月が何度も地球をその身で庇ったように、ごくごく献身的な意識。ただひたすらに献身的な意識。わざとらしさ、恩着せがましさ、下心の無い意識。それは焼いた針で刺抜きをすることに似ている。通常では他者に対して用いてはいけないものを用い、行ってはいけないことを行い、しかしそこに背徳性はなく、ただひたすらに献身的な思いがあるのだ。煩悩を抱くわけでもなく、ただ自然に思い人の下着を洗えるなら。その思い人との殆どのトラブルは穏便に済ませられるのではないか。しかしながら、私にはそのような相手はいない。それを思うと、私は誰かに、下心の無い親切心を向けられない人間なのではと疑いを持ってしまう。献身的に他人の下着を洗えない人間に、偽善性のない行為ができるだろうか。全ては自分のためではないのか?私は聖人君主になるつもりはないが、かといって嘘の水あめに沈んだ無様な蛙にはなりたくない。水辺ではねる溺れぬ魚になりたいのだ。自分のために自分の下着を洗うのはできる。しかし、非自分のために非自分の下着を洗うこと。とても難しいことだ。それができるようになりたいと、私は心から思いながら洗濯機を回す。そのドラムは私の垢や抜け毛と共にそんな理想を溶かし、回っているのだ。僕のために回っているのだ。君も僕のために下着を洗ってくれる。君が美しい人であったなら僕は口説かずにおれないだろう。掃除機だってガスコンロだって君に恋をする。君に下着を洗って欲しいとせがむに違いない。でも、今は僕のものだ。今は洗濯中だ。洗濯中に描きました。以上が画像の解説です。