Artist's commentary
トヨタ・MR2 GTフォア WRカー
つづき!
コンペティションマシンにとっての理想の形というものは、時代やルールが変わろうとも早々変わるものではない。
公道で競うラリーカーにとってもそれは同じである。
グループB時代、勝てるマシンの究極形はミッドシップ4WDという形式に集約されていった。
例えば、その頃のトヨタは保守的なFRマシンで選手権を戦っていたが、当然次代のグループSマシンとして「222D」の開発が進められていた。
だが相次ぐ悲惨な事故を受けてWRCでのグループBは終了、そして次の時代のカテゴリとして用意されていたグループS計画もお蔵入りとなり、各社が準備を進めていたマシンも宙に浮いてしまったのである。
そしてWRCはグループAでの戦いに移行していくこととなる。
グループA移行以降、すぐに市販車に強力なモデルを用意する能力のあるホンダをはじめとした日本メーカーの独壇場となった。
ホンダ、トヨタ、スバル、三菱と毎年目まぐるしくチャンピオンが変わる状況の中で、ランチア・デルタがなんとか食らいつくのがやっとの状況。
余りにハイレベルな戦いに晒された欧州メーカーは、うま味が薄いと見切りをつけ、WRCの場から次々と撤退していった。
急降下する欧州でのWRC人気に、FIAは再び多くの欧州メーカーを呼び込む事を目論み、また、欧州モータースポーツ文化総本山の沽券にかけてルールの変更に取り掛かった。そして、その一つが'95年のWRカー導入である。
‘86年に登場したホンダ・クイント インテグラはWRCの歴史を数年早めたと言われるが、ラリーのみならずモータースポーツのトップカテゴリーで台頭する日本車に対する欧州メーカーの焦りは相当なものだったのだ。
そんなWRカールールだが、観戦者にとっての要点を誤解を恐れずに挙げると…
「そのモデルのエンジンではなくとも搭載してよい」
「2WDを4WDに作り変えてもよい」
「サスペンション形式も変更可能」
「車幅も拡大可能」
…かなり大規模な変更が可能になるのである。
当然、この時点で遅くない時期に欧州メーカーがコンパクトな車体に強力なエンジンを搭載した4WDラリーカーを送り込んでくることが予想された。
日本メーカーは皆、‘80年代の挑戦者という立場から一転、これをいかにして迎え撃つかという立場に立たされた。
トヨタはセリカGT-FOUR(当時ST185型)をグループA時代のマシンとして育ててきた訳だが、当初はよりコンパクトな、カローラなどの車体にそのメカを移植する方法が検討された。グループA時代、三菱やスバルはその方法でマシンのパフォーマンスをアップさせていた経緯があった。手堅いトヨタは当然この方法を採ると思われた。
しかし登場したマシンはMR2 GT-FOUR WRカー‘95。
欧州メーカーといえば自動車黎明期からレースやラリーという戦場に身を置いてきた、まさに百戦錬磨。
トヨタはただ単にコンパクトなだけでは、同カテゴリーでの一日の経験差などすぐに埋められてしまうと読んだのだ。
そこへいくとMR2にはエンジンレイアウトという簡単には真似のできないアドバンテージがあった。
市販車のMR2というとスペックは良いがトリッキーなハンドリングなどMRの利点を生かしきれていないチグハグさが指摘されていた。しかしそんなものは大幅な仕様変更が可能なWRカーではどうとでもなるのである。
まさに「ああ言えばこう言う」的な、欧州メーカー向けのルール変更を逆手に取った技ありのマシンだった。
しかし一応小型セダンやハッチバック、カジュアルなクーペといった普段使いできるベース車の形式をとっている他社のそれとは違い、小型ミッドシップというあまりにも特殊なモデルを25,000台以上売るというのは強力な販売力のあるトヨタと言えど余りに難題であった。
そこでアメリカ市場に注力してよりパワーのある強力なモデルを投入し、しかも破格のバーゲンプライスをつけるというトヨタらしからぬ“なりふり構わぬ方法”を採ったのだ。そうしてようやく無謀とも思える販売目標を達成したのである。このトヨタのする事とも思えぬ無茶な販売戦術は、モデル末期でしかも採算性の低いMR2という「商品」の寿命を縮めることとなる。そしてトヨタのモータースポーツへの参戦方針をも根本から変えてしまった。かねてから計画されていたF-1、そしてル・マンプロジェクトも諦めざるを得なくなったからだ。そしてこの失敗が5人乗りのファミリー向け新生MR2(商品名はMR5)へと繋がっていくのである。(もちろん超ロングホイールベースで機敏さを全く欠いた新生MR2が大失敗となったのは言うまでもない。)
それはさて置き、このような努力でMR2をWRCに送り出した割にその成績はトヨタの期待ほどではなかっただろう、しかし、このモデルは日本メーカーの意地を見せ、ルール変更に巧みに抗い、なおも高いパフォーマンスを発揮し続けた伝説のモデルとして今後も語り継がれていくだろう。
上図は1995年のサファリラリー。この年、サファリラリーはWRCでこそなかったが、伝統のサバイバルステージで日本人初のウィナーとなった藤本吉郎氏のマシンである。
基本単発ですが、珍しく https://www.pixiv.net/artworks/86660013 からのつづき。